以前のブログで、私たちの中には主役と演出家がいて、両者が協力して人生という劇場を営んでいるという話をしました。今回は人生という劇の中で取る役割について考えてみましょう。
私たちの人生は、親から生まれた赤ん坊として始まります。親という存在に対し、私たちは子供という存在です。このように、私たちは単独で存在するのではなく、親に対して子供、子供に対して親というように、相対的な関係の中で存在しています。この関係を成り立たせているのは、お互いの役割です。
人生では、子供という役割、学生という役割、男性(女性)という役割、社会人という役割、夫(妻)という役割、親という役割など、次々と役割が変わり増えたり減ったりします。役割は相対的ですから、相手次第で、役割の内容が変わってきます。それぞれの役割には必要とされる特性(アイデンティティ)があり、それを満たすよう行動することが求められます。例えば、親は仕事をして生活費を稼ぎ、子供を見守り成長を助けることを求められます。子供は、親に守られ自分の欲求を表現しながら、ルールや知識を身に着けて成長して行くのが役割です。
もし親がこの役割を取らなかったらどうなるでしょう?子供が親に代わり生活の心配をしなければならなかったり、知識やルールを身につけることが出来なかったりします。何より、親に守られるという安心感が得られず、不安に満ちた人生を送ることになります。
このように、相対的な存在である私たちは、相手次第で、のびのびと自分を発揮したり、逆に自分を抑えて相手に合わせたりします。役割は私たちに生きる場を与えてくれますが、私たちを抑えつけ苦しめることもあるのです。
ところが、どのような関係の中で、どのように役割を演じているかは、自分にはなかなか分からないものです。近い関係であるほど、私たちには関係が相対的ではなく、絶対的関係と感じられ、役割という捉え方はできにくいものです。確かに、人生の始まりに、どのような親のもとに生まれるかは選びようのない絶対的なものです。しかし、その後どのような関係の中で、自分がどのような役割を取って来たかは、見直して行くことができます。
そのためには、観客の視点でひたすら自分に焦点を当て考えていくことが必要です。自分に焦点を当て続けることで、絶対的と思えた関係が、徐々に相対的なものになり疑問も湧いてきます。そこで、役割を通した言葉や行動の奥には、どんな感情があるか見てみましょう。ほどほどの満足感があれば、役割を通して自分を発揮できています。怒り、虚しさなどの感情が強ければ、今の役割は自分を抑えつけているのかもしれません。この怒りや虚しさという苦しい感情は他者に向けられたり、自分に向けられ気分が落ち込んだりします。この感情が役割から生じているという認識があれば、役割の取り方を変えたり、それが難しい場合は、役割を離れてみるなど、具体的な方法が考えられます。
人生は劇場です。役者であるとともに、観客となって自分の役割を見る視点が必要ではないでしょうか?