中国で起こった天安門事件から今年で30年が経ち、事件を振り返る特集もよく見かけます。
30年前の1989年、民主化を求めて天安門に集まった学生達に対し、中国共産党は人民解放軍を動員して発砲し鎮圧しました。これは鄧小平を中心とする保守派の決定でした。その後の中国の目覚ましい経済発展はご存知の通りです。
1966年から1976年の文化大革命では、若者たちが大人たちに自己批判を求めてエスカレートし社会が混乱、経済は10年間停滞しました。天安門事件で保守派の頭によぎったのは、文化大革命のトラウマかも知れません。
現在の中国は、都市部はまるでマンハッタンのような高層ビルが林立しています。また、大胆な都市計画で貧民街を取り壊し、新たな住宅を作って人々の生活を変えようとしています。これは、地方でも同じ方法で進められているようです。
中国共産党は法律の上に位置する絶対的な存在とされています。誤りはないはずなのです。党は共産主義の理念に基づき、人びとに一定水準の生活を提供しようとしているのでしょう。しかし、党の批判は許されません。監視カメラが国民の生活を監視し、見回りの警察官が目を光らせ、インターネットに批判を書き込んだ途端、削除されます。
国家も一つの有機体です。中国は指導部が、豊かな国造りを推し進めますが、上から与えるトップダウン方式で、批判は許しません。若者たちは、ありがたくこれを享受するものの、自由な表現はできないのです。しかし、本来の若者の役割とは、個性を自由に表現し、体制の枠を超えた新しい文化を作っていくものです。これがないと、いずれその有機体=社会は衰えていきます。
文化大革命でも天安門事件でも、多数の犠牲者を出し、事件の本当の意味は何だったのかという問いが残りました。これにきちんと向き合ってないので、誤りのない党という幻想に基づく国家運営になってしまうのでしょう。私たちも自分の弱さを感じると、それを隠すため完璧主義になり、無理な要求を自分や周囲に課したりします。トラウマと向き合うことの難しさ、ついつい幻想にしがみつきたくなる危うさを考えさせられます。