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信頼と依存

 

 私達は、当たり前のように日々を生きており、それを疑うことはほとんどありません。なぜかと言えば、地球の存在に対して、日常が続くことに対して、そして私たちを取り巻く社会や人間関係に対して、安心感・信頼感があるからでしょう。

 

この安心感・信頼感は、日頃ほとんど意識することはありませんが、それが失われた時に痛感させられます。例えば、突然の災害や、身近な人との思いがけない別れなど。

 

さて、この安心感・信頼感はいつからあるのでしょう。

 

本来なら生きるために、生まれ落ちる時に、自動的にプレゼントされるはずです。しかし、このプレゼントをもらえない場合も多いのです。戦争や貧困、病気などの苦しい状況で生まれる場合もあり、人間関係に恵まれない不安定な家庭に生まれる場合もあります。

 

特に親や身近な人との人間関係で信頼感を得られない場合、心にはいつも不安や自信のなさ、怒りなどが潜在するようになります。この結果、ともすれば自分を否定してしまい、生きて行くことが難しく感じられます。

 

依存症は、そのような苦しい現実から目をそらし、自分を励ますための方法として始まることも多いのです。酒、薬、食べ物、ギャンブル、中には仕事や人間関係への依存など、とても広範囲に依存対象は存在します。

 

問題は、どのような依存対象でも依存している時にしか効果がなく、効果を求め続けるには依存を繰り返すしかないこと、繰り返す度にさらに強い刺激を求めるようになること、そして依存を続けても信頼感は育たず、かえって自信を失くすことでしょう。せっかく辛い日常から逃れたり、自分を励まそうとしたことが、自分を追い詰めてしまうわけです。

 

ところで、信頼感ができる過程を考えてみると、まず相手に自分を委ねるということが起こりますが、それはまさに依存が起こった状態とも言えます。この依存が受け入れられる中で、信頼感が生まれ、相手を真似たり取り入れるうちに、徐々に自分なりに生きていく自信ができてきます。依存という状態は、私たちが人間関係の中で生きて行く出発点となる、大事なものなのです。

 

しかし、私達の心の中には、依存を否定する気持ちがあります。よく聞くのは、依存の状態を「甘えている」「弱い」などと形容する言葉です。本当は、誰しもこの依存したい、甘えたい欲求を持っているのですが、それを我慢し断念して大人になったという思いから、依存に厳しくなるのでしょう。依存症に陥った当事者の心の中にも、依存を否定する気持ちが強くあります。

 

しかし、依存の問題に陥った場合、自分を否定して追い詰めるのではなく、まず自分の気持ちを認めるという発想の転換が必要です。依存の奥にある、人を求める気持ち、認められたい気持ち、一人ぼっちの不安など、今まで言葉にできず否定していた気持ちを表現してみましょう。誰も認めてくれなかったこの気持ちを認めてやって初めて、生きて行く意欲や安心感・信頼感が芽生えてくるのではないでしょうか。