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ピカソと太郎

パブロ・ピカソと岡本太郎、どちらも個性豊かな芸術家です。

ピカソは1881年生まれ、太郎は1911年生まれで、30歳の年齢差があります。太郎は18歳で両親(作家の岡本かの子・漫画家の岡本一平)と渡仏。両親は帰国しましたが、太郎はパリで芸術運動に参加し、パリ大学で哲学・社会学・民俗学を学んでいます。

パリで知り合ったピカソは既に高名な芸術家で、太郎は大きな影響を受けました。その影響は生涯にわたって続き、太郎の口癖は「ピカソを超えたい」でした。

ところで、太郎の功績の一つに、縄文土器である火焔土器の芸術的価値を発見したことがあります。単に古代の遺物とみなされていた火焔土器を、初めて見た太郎は「何だ、これは!」と叫びました。素晴らしい原始美術と捉え直し、日本の美術史を書き換えたのです。

 火焔土器は、深鉢形の土器の上部に鶏のような冠や歯が並んだようなギザギザ文様が夥しく張り付いてあふれ出し、胴部は細長い粘土紐に覆われています。その形状はエネルギーのかたまりのようで、確かに火焔を連想させます。このように、縄文時代の土器や土偶には、私たちの心の深層に直接突き刺さるような、言葉を超えた表現を持っているものがたくさんあります。

また太郎は、1970年の大阪万博を象徴するモニュメント「太陽の塔」を製作しました。70mもあるこの塔には、前面の上下に二つの顔があります。上が未来、下が現在を表す顔で裏面に過去の顔があります。

私はこの太陽の塔から、火焔土器と同じころ作られた、二つの顔がついた縄文土器を連想します。深鉢の向こう側に上の顔、手前の壁面に下の顔がついていて、上が母親、下が生まれ来る子供ではないかと言われています。改めて太陽の塔を見ると、過去、現在、未来へと生命が続いていくことを象徴する、大きな土偶のように見えます。太郎は縄文の心を発見し、現代の表現によみがえらせたのです。

ピカソの父親は美術教師でしたが、ピカソが13歳の時、絵を描くのを止めました。息子の才能が自分を遥かに超えていることを悟ったからと言われています。ピカソは生涯、自分の中から出てくる表現を追い求め、破壊と創造を繰り返して新しい表現を生み出しました。そんなピカソを超えたいと思い続けた太郎は、父権的なものをピカソに投影したのかもしれません。当のピカソは、父権的なものから解き放され、自由奔放な創作活動をしたように見えます。

 

ともあれ太郎が、縄文土器の中に存在するデモーニッシュで豊穣な表現を発見し、それを世に発表していく過程は、ある意味「ピカソを超える」、偉大な芸術活動と思われます。