私達は、人と違うことは、なるべく避けようとします。人並外れてお金持ち、頭がいいなど、人と違うことに憧れることもありますが、場所にそぐわない服を着たり、集団のルールから外れそうなことはなかなかやらないものです。人つまり世間という暗黙の規範を内在化させ、それに外れないように自分を律しているのです。
世間の始まりは家族です。家族と言う世間の中で、自分の行動が合うかどうか、無意識に判断します。
普通、親は、子供を迎え容れる心と実際の用意をして子供の出生を待ちます。子供の存在を受け容れ、子供を日々世話しながら理解を深め、必要な世間のルールを教えます。子供は受け容れられている安心感と共に、はみ出してはいけない世間のルールを身につけるのです。
家族の中に子供を受け容れる容量が乏しいと、子供は何かにつけ責められたり、放置されたりして、居場所がない寂しさ苦しさを抱え続けます。
その場合、内在化された世間は、自分を責めたり疎外したりするもので、自分を肯定し律することはできないのです。いつも不安で、自分の欲求もよく分からず、その場その場を生きることで精一杯です。世間のルールが身に着かない環境では、一方的に自分を抑えて周囲に合わせたり、逆に攻撃したりと、不安定な繰り返しになってしまいます。
世間体というと、いかにも古臭く思えますが、世間のルールは自分を守るものとしていったん身に着けた上で、変えるべきところは少しずつ変えて行くことが望ましいのです。このような世間のルールは、自分が受け容れられているという安心感があって、初めて身に着きます。
不幸にして、家庭が子供を受け容れられる環境でなかった場合、家庭を責めるのではなく、社会が受け容れる環境、世間を用意し、子供も親も自由に利用できることが望ましいと思われます。