現実を思い通りにしたいという欲求、これは私達が生涯持ち続ける欲求でしょう。
生まれるとすぐ、お腹がすいて泣きます。お腹を満たしたい欲求でいっぱいになるのです。そして、叶えられるまで泣き続けます。
このような基本的な本能欲求から始まり、自分の欲求を通したいという気持ちは次々と出てきます。嫌いな野菜は食べたくない、好きな玩具が欲しいなど。
親はこの激しい欲求攻勢に対し、「野菜を食べないと健康にならない」「この間玩具を買ったばかりだからダメ」と、親にとっての正論や現実を突きつけ阻みます。しかし子供も、しつこく要求し、時には泣きわめいたりして、諦めません。親は「わがままだ」と怒り出したり、「お手伝いをすること」などの条件をつけて聞いてやったりします。
このように、思い通りにしたいという欲求の強さは、私達の生きる原動力のようにも見えます。
幼少時、この欲求を繰り返し表現し、受け容れられたり、拒否されたりする経験から、人は自分が生きる世界の限界を知り、その中で生きて行く安心感も味わいます。徐々に、思い通りにしたいという欲求をむき出しに出すことは減り、周囲を配慮しながら出すようになります。
幼少期に、この思い通りにしたいという欲求を出すことができなかった場合、問題が残ります。
親が、自分の思い通りに支配したいという欲求が強く、子供の欲求を抑え込んでしまうとか、欲求を出す相手つまり養育者がいないなどの情況では、この欲求は出せません。
この時、思い通りにしたい欲求は気づかないまま残り、何かあると出てきます。現実の判断がこの欲求に左右されてしまい、社会生活で支障をきたすことが多くなります。
例えば、仕事を自分の思い通りしたい、自分の意見に反対の人は排除したいなどの欲求が強すぎて周囲と対立するなど。また逆に、人に受け容れてもらった経験が乏しいため、相手の顔色が気になり、相手に喜んでもらいたいという欲求が行動基準になることもあります。そして、時間や労力などは顧みず、相手を喜ばそうとします。
どちらにしても、結局、思い通りの結果は得られず、疲れや虚しさが溜まって行きます。
思い通りにしたいという欲求を抱えて困っている自分のことを、話せる場が必要です。欲求を抑え込んで来た自分、周囲にばかり合わせて来た自分、そんな自分に目を向けてやり、自分のことを語ってみましょう。